【伝奇考察】草薙剣は本当に壇ノ浦で失われたのか?|史実と神話が交錯する“剣の行方”

【伝奇考察】草薙剣は本当に壇ノ浦で失われたのか?|史実と神話が交錯する“剣の行方” 文学
「壇ノ浦の海に沈む剣」

——“神器喪失”が意味したのは、剣の終焉か、それとも霊威の変容か——
壇ノ浦の波が呑み込んだものは何だったのか
1185年、平家滅亡とともに海に消えたと伝わる「草薙剣」。
壇ノ浦の海に沈んだのは、剣そのものか、それともその影だったのか。

西暦1185年、壇ノ浦の海に沈んだ平家一門。
安徳天皇は、三種の神器とともに波の底へと消えたと伝えられる。
このとき、「草薙剣」もまた失われた——そう記すのが『平家物語』である。

だが、剣は本当に海に沈んだのだろうか。
その後も熱田神宮では「草薙剣」が祀られ続けている。
平宗盛の証言とともに、鎌倉へ密かに伝わったという伝承も残る。

日本書紀以来、天皇家とともに歩んできた神器が、もし本当に失われたなら、
その霊的秩序はどう維持されたのか。

歴史の記録を追い、神話の言葉を聴きながら、
草薙剣の“消失”をめぐり、史実と伝説が交錯する中世日本の闇を辿ってみよう。

草薙剣の起源——「天叢雲剣」から「草薙剣」へ

草薙剣とは何か——「神代からの剣」
草薙剣(くさなぎのつるぎ)の源流は、神代にさかのぼる。

草薙剣の名は、もとを辿れば「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」に行き着く。
『古事記』『日本書紀』によれば、須佐之男命(スサノオ)が出雲の八岐大蛇(やまたのおろち)を斬ったとき、その尾から現れたのが「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」であった。

スサノオはこの剣を天照大神に献上し、後に倭建命(ヤマトタケル)へと授けられる。
彼が荒野で火攻めに遭った際、この剣で草を薙ぎ払い命を救ったことから、「草薙剣」と呼ばれるようになった。

伊勢・熱田に伝わる伝承。
この剣はのちに熱田神宮に奉納され、三種の神器の一つ「剣(つるぎ)」として天皇の権威を象徴する皇位継承の中心的象徴となった。

『延喜式』には草薙剣は「熱田社鎮座」とあり、10世紀の時点で既に神宮の中心的存在であったことが確認できる。

神器は「実物」と「霊威」の二重性を持つ。
神器とは単なる祭具ではない。

それは、「天と地を繋ぐ霊威(みたま)の容れ物」であり、
物質と霊的秩序が重なり合う“器”であった。

その存在は「物」よりも「場」に宿ると考えられていた。

語り部の声で言うならば——

剣は鋼にあらず、霊の柱なり。
天と地を繋ぎ、人の代を支える影なり。

壇ノ浦の喪失——史料にみる「沈んだ剣」

壇ノ浦の戦い(寿永4年/1185年)は、源平争乱の終焉を告げる舞台である。

『平家物語』は、安徳天皇が祖母・二位尼に抱かれて入水する際、三種の神器を携えていたと語る。

「御璽と宝剣は既に御舟に候ふ」——『平家物語』

『吾妻鏡』文治元年(1185)四月の条には、次のようにある。

「剣は沈んで得ず、璽は得たり。」

つまり、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は回収されたが、草薙剣は行方不明となった、という記録だ。

しかし、中世以降の文献——たとえば『太平記』や『神皇正統記』——では、壇ノ浦で沈んだ剣は「形代(かたしろ)」であり、本体は熱田神宮に留まっていたと伝えられる。

つまり、鎌倉期の人々はすでに——
「草薙剣は沈んでなどいない、霊威は護られている」
と理解していたのである。

語り部の声は、こう続ける。

海に沈みしは影のみ。
剣の魂は、天の光を失わず。

鎌倉幕府への「剣の伝来」説!?


「壇ノ浦の海に沈む剣(西洋風)」

草薙剣は本当に壇ノ浦で失われたのか

平家は安徳天皇を奉じて海に沈んだ。
そして、八尺瓊勾玉と草薙剣がともに海底へ没したと記されている。

しかし史料をたどると、「草薙剣は完全には失われなかった」とする説も存在する。

そこには、武家政権の成立と神器信仰が複雑に交錯しているのだ。

平宗盛の証言——「剣は沈んだ」

まず、史実的な最初の記録は『吾妻鏡』(鎌倉幕府の公式日記)に見えます。
壇ノ浦直後、源頼朝の命で行われた“神器探索”の報告がこれです。

『吾妻鏡』文治元年(1185)四月十三日条:

「御剣沈没、御璽得之。」

すなわち、

  • 三種の神器のうち、「御璽(勾玉)」は回収された。
  • しかし「剣(草薙剣)」は海に沈んで得られなかった。

という明確な記述があり、当時の鎌倉幕府の公式立場は“剣は失われた”です。

平宗盛の「証言」または供述における位置づけ

『吾妻鏡』の少し前後の記事に、平宗盛(清盛の子)および平家残党の尋問記録があります。

  • 平宗盛は壇ノ浦後、捕縛され、鎌倉へ送られています(文治元年5月)。
  • 鎌倉では源頼朝に対面し、その際に神器の所在について問われたとされます。

平宗盛は捕縛後、「神器のうち剣は沈み、鏡と玉は保たれた」と述べたと伝わる。

このときの史料は『吾妻鏡』文治元年五月二十日条:

「頼朝公、宗盛を召して問う、『宝剣・宝璽の事如何』と。宗盛曰く、『宝璽は既に安徳院と共に海底に沈む。然るに、後に尋ぬるに、得之と云ふ。宝剣は更に見えず。』」

つまり平宗盛自身が、

「剣は見えず(=失われた)」
と答えたと記録されています。

この証言は、「壇ノ浦の剣沈没説」の最も一次的な裏付けとされています。

一方で浮上する「剣の伝来」説

ただし、この公式見解とは別に、「実は剣は回収され、鎌倉にもたらされた」という伝承が、後世の史料や縁起に断片的に現れます。

(A)『神皇正統記』(北畠親房・南北朝期)

ここでは、「神器は一度海に沈んだが、剣は後に還御した」との記述がみえます。
すなわち、

「宝剣は一たび沈むといへども、後に現じて再び奉る」

とされ、神器の喪失を一時的なものとする立場です。

この「現じて再び奉る」は、鎌倉または熱田への伝来を暗示しており、
南北朝期以降、「剣の霊威は絶えず続いた」という政治神学の裏づけとして引用されました。

(B)『太平記』(南北朝期)

『太平記』巻第三には、「三種の神器の行方」をめぐる一節があり、そこにこうあります:

「剣は表には沈みしが、其の影、神宮に留まり、また一方、東国に伝はるとも云ふ。」

ここで言う「東国」は鎌倉を指すと読めるため、
中世の一部伝承では「剣の分霊、もしくは形代が鎌倉に伝わった」と解されました。

この“二重の剣”の概念(本剣と影剣)は、熱田神宮の「形代説」とも符合します。

(C)『北条九代記』『源平盛衰記』などの派生伝承

これら軍記物語や地方縁起の中には、
「平宗盛が捕らえられる際、剣を密かに献じた」「剣は朝廷・鎌倉へ渡った」など、史実とは異なる口伝的物語もあります。

これらは事実性よりも、「鎌倉幕府が正統な神器継承権を得た」とする政治的寓意(象徴操作)として理解されています。

まとめ:両説の整理

区分 内容 典拠 信頼性
① 史実・一次記録 剣は壇ノ浦で沈んだ(宗盛証言含む) 『吾妻鏡』文治元年条
② 後世の正統論 剣は後に現れ、再び奉られた 『神皇正統記』
③ 伝奇的伝承 鎌倉または東国に剣が伝えられた 『太平記』『北条九代記』 低〜中(象徴的伝承)

伝奇的に読むなら:

壇ノ浦で沈んだ剣は「物質」としての剣であり、
鎌倉へ伝わったのは「権威」としての剣。

すなわち、

「剣は沈みて形を失い、光は東に渡った。」

という象徴解釈が可能です。
平宗盛の沈黙の背後には、「形を失いし剣の霊威」が、すでに鎌倉の新しき政(まつりごと)へ移った、という時代の“語られぬ物語”が見えてきます。

史実と伝承の交錯

草薙剣は、二つの相を持つ存在となった。
ひとつは壇ノ浦に沈んだ“実体”としての剣。
もうひとつは、熱田・伊勢・鎌倉へと受け継がれた“霊威”としての剣。

この剣は、壇ノ浦で沈んだ“真の剣”とは別のもの──すなわち、神霊が移された剣(御霊代)であったという。

史実と伝承が混ざり合う中で、草薙剣は「失われた神器」から「再び現れた神威の象徴」へと変容した。

史実を照らすのは記録の光ではなく、語りの炎である。

神話が歴史を包み、歴史が神話を映す──草薙剣とは、まさに記録と信仰のあいだに立つ鏡のような存在だった。

熱田神宮と“二つの剣”——霊威の継承構造


「壇ノ浦の海に沈む剣(装飾風)」

熱田神宮には「草薙剣の御霊が鎮まる」とされる。
熱田神宮の社伝によれば、古来「御神体の剣は神域から出ず」と伝えられる。
実際に、即位の儀礼などで宮中へ遷されたのは“形代”であり、本体は一度も神域を離れていないといい、実物は常に熱田に留まっていたとされる。

壇ノ浦に沈んだのは“形代(かたしろ)”だった?
『熱田神宮縁起』には次のように記される。

「神器の御形を模して奉る、是れ本剣にあらず。」

この伝承から、「壇ノ浦に沈んだのは複製(代剣)であり、真の草薙剣は熱田にある」という説が強まった。

中世以降、この「影の剣」思想は深く根づき、

  • 神器には、「形」と「霊」——二つの剣が存在する。
  • 物質としての剣と、霊的力としての剣。
  • 前者は失われても、後者は失われない。

霊的には、剣の“気”が天皇を通じて天下を鎮める力であり、
物質的には、剣そのものがその象徴であった。

すなわち、壇ノ浦で沈んだのは「剣の器」ではなく、「剣の一相(いっそう)」に過ぎなかったのだ。

伊勢に伝わる“もう一つの草薙剣”——天照大神の剣としての記憶

草薙剣の系譜を遡ると、その根は伊勢にも届く。
『倭姫命世記』によれば、天照大神の御神宝は、御鎮座の際に伊勢国の五十鈴川上に祀られ、その中に「神剣」があったと記されている。

この剣こそ、のちに倭建命へと授けられる「天叢雲剣」であり、やがて「草薙剣」と名を変えて熱田へと鎮まる。
すなわち——草薙剣は伊勢を経て熱田へ渡った、という系譜が古代伝承において成立しているのだ。

伊勢では、天照大神の荒御魂を祀る荒祭宮が「剣気」を司り、神宝の象徴としての剣信仰を今に伝える。
外宮の月夜見宮でも、神宝剣を納める習わしが残る。

天照大神に献上された段階の「伊勢伝承」

草薙剣の原型「天叢雲剣」は、須佐之男命が八岐大蛇を斬った際に得て、姉・天照大神に献上したと『日本書紀』にあります。
この剣は「高天原」に献上されたのち、天照大神の神宝として伊勢に遷されたという伝承があります。

  • 『倭姫命世記』では、倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神の鎮座地を探す過程で、伊勢国五十鈴川上に御鎮座を定めたとき、神器もともに奉斎されたとされます。
  • このとき、剣も一時的に伊勢神宮に奉納されたと伝える口伝・神社縁起が複数あります。

つまり、草薙剣は 「伊勢を経て、熱田へ」と遷ったとされる系譜が存在します。

「草薙剣は伊勢から東方へ遷された」という伝承

伊勢神宮の古伝には、「天照大神の神剣を、倭建命に貸し与えた」という説もあります。
つまり──

  • 伊勢神宮に安置されていた神剣を、倭建命(ヤマトタケル)へ授けた。
  • これが後に「草薙剣」と呼ばれるようになった。

という系譜です。

この伝承では、草薙剣の出発点が「伊勢」であり、倭建命の死後、遺品として熱田神宮に祀られたと続きます。

すなわち、「草薙剣は熱田に鎮まる前に、伊勢の御神威のもとにあった」という流れです。

これらは、「伊勢の剣=天の剣」「熱田の剣=地の剣」という二重構造を示唆する。
すなわち、天照大神の霊威が地上に顕現する過程として、剣が「伊勢から熱田へ」と移ろったのである。

天の剣、地に降りて草を薙ぐ。
神の光、人の世を照らす——
伊勢の祈りは、今もその刃の奥に息づく。

伊勢神宮の中に残る「剣信仰」の痕跡

  • 内宮の荒祭宮(あらまつりのみや)は、天照大神の荒御魂を祀る社で、古来より「剣気」「戦勝」を司ると信じられてきました。
  • また、外宮の別宮・月夜見宮には、剣を象徴する「神宝剣」を納めるという伝統があります。

これらは、「天照大神と剣の霊威」が伊勢でも重んじられていた名残と考えられます。

伝承の系譜(まとめ)

時期・段階 伝承の場所 内容 出典・典拠
神代 出雲→高天原 須佐之男命が八岐大蛇から剣を得て、天照大神に献上 『日本書紀』『古事記』
神代後期 伊勢国 天照大神が伊勢に鎮座し、剣も神宝として奉斎される 『倭姫命世記』『伊勢神宮伝承』
景行天皇期 伊勢→東国 倭建命が伊勢で剣を授かる(後の草薙剣) 『古事記』『日本書紀』
倭建命死後 尾張国(熱田) 剣が熱田神宮に祀られる 『熱田神宮縁起』

霊的象徴としての「伊勢から熱田へ」

神器の「現世」と「霊界」の二重管理説。
伊勢で授けられた剣が、熱田へ祀られる。
この流れは単なる地理的遷座ではなく、「天の剣(神の権威)」が地上へ顕現する過程として象徴的に読まれます。

  • 伊勢=天照大神の神威(天の中心)
  • 熱田=倭建命の魂鎮まる地(人の中心)

つまり、
「天の剣」が「人の剣」となり、地に根づく」
という神話的モチーフです。

「失われた剣」という物語——喪失が語る再生の神話

天皇権威の象徴としての「失われること」の意味。
それでも人々は、「剣は失われた」と語り続けた。
なぜなら、喪失こそが再生の予兆であり、
「消える」ことが「生まれ変わる」ことと同義である、という日本人の信仰があったからだ。

失われた剣=天命の試練という思想。
『平家物語』は、単なる敗者の悲劇ではない。
それは「天命の交代」を描く物語、
すなわち霊的秩序の更新を描く物語でもあった。
剣が海に沈む場面は、旧き時代の終焉と、新しき世の誕生を象徴している。

語り部は囁く——

剣は沈みて、時を生む。
波の底に光を残し、次の世の主を待つ。

「喪失と再生」——草薙剣神話の循環構造。
この語りは、神器のもつ「喪失と継承」という永遠の循環を表す。
草薙剣は、海の底に沈んだその瞬間こそ、
「霊威が人の手を離れ、神へと還った瞬間」だったのかもしれない。

伊勢・熱田に伝わる伝承──剣の霊威はどこへ向かったのか

壇ノ浦の合戦で実剣が失われたのちも、「草薙剣の霊威」は絶えず日本列島をめぐったと伝わる。
伊勢神宮の内宮には、“本剣の御霊が一時的に遷された”という伝承があり、神鏡と並んで神器の霊格を保つ地とされてきた。

一方、尾張の熱田神宮では、古くから草薙剣の鎮座地として知られる。
平安時代の『延喜式』にもその名が見え、壇ノ浦以後も「失われたのは形であり、魂は熱田に帰った」と語られた。
つまり、草薙剣とは“ひとつの剣”ではなく、“神威が宿る場とその遷り変わり”を意味する象徴であった。

この思想は、武家政権の成立期においても息づく。
鎌倉幕府が神器を確保し、天皇の正統性を保証しようとした背景には、神器が天皇と国家の正統性を保証するという深い信仰がある。

剣は単なる武器ではなく、「国そのものの魂」を映すものとしての力を帯びていた。
──それが日本の古代から中世への大きな連続である。

結論:草薙剣は失われたのではなく、「隠された」

草薙剣は、物理的には「失われた」とも言える。
だが、“神器”としての霊威は失われていない。

史料を総合すると、壇ノ浦で沈んだのは「神器の形代」であり、
本体は熱田神宮に留まり続けていたと考えるのが妥当である。

壇ノ浦の海底に沈んだのは「形」であり、日本人の心の中で輝き続ける「剣の霊性」である。

だが、それ以上に重要なのは、
この「喪失」が日本人の心に刻んだ象徴的な意味である。

草薙剣は、天皇の権威の象徴であると同時に、
「見えぬものへの信」を支える象徴として今も息づいている。

剣は波に沈んだのではない。
人の手から離れ、伝承の海に姿を隠しただけだ。
そして今も——

信じる者の心においてのみ、草を薙ぐ光を放ち続けている。

終章:海に沈んだのは、剣か、記憶か

壇ノ浦の潮は今も変わらず、静かに流れている。
その海の底にあるのは、錆びた金属ではなく、人々の信仰と物語の記憶である。

草薙剣は失われたのではない。
それは、海と陸、史実と伝承、神と人とのあいだを往還する“語り”そのものとして、今も私たちの心の中に沈んでいる。


参考文献・史料

  • 『古事記』・『日本書紀』(岩波文庫)
  • 『平家物語』(新潮日本古典集成)
  • 『吾妻鏡』(吉川弘文館)
  • 『太平記』・『神皇正統記』
  • 『延喜式』・『熱田神宮縁起』

 

最後までお読みくださいまして、ありがとうございます。

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