クリスマスと、家という場所 -短いエッセイ-

クリスマスと、家という場所 -短いエッセイ- エッセイ

家を大切にする人は、クリスマスを大切にする。

クリスマスを大切にする人は、家を大切にする人。

 

そんなイメージを、私はずっと持っていた。

 

クリスマスという言葉には、なぜか家庭的な雰囲気が漂う。

そう感じるのは、おそらく私だけではないだろう。

 

クリスマスは「外へ誇示する祝祭」ではなく、

本来は家の中で、静かに分かち合われる時間です。

 

クリスマスを迎える準備をするということは、

灯りをともすこと

誰かを迎える準備をすること

いつもの空間に、少しの祈りや温もりを置くこと

そうした暮らしへの敬意を持っている、ということなのでしょう。

 

そしてそれは、家を「ただの建物」ではなく、

記憶が積もり、

心が休む場所として、

丁寧に扱っているということでもある。

私の子ども時代のクリスマス

 

けれど、私自身の子ども時代のクリスマスは、そんな特別なものではなかった。

 

私は、通常通り、学校に通い、友だちと遊び、習い事や勉強をしていたと思う。

家の中でツリーを飾ったり、特別な料理を囲んだりという記憶は、あまり鮮明ではない。

 

それでも、クリスマスは確かにそこにあった。

 

街に流れる音楽、ショッピングウインドウに映る光、すれ違う人々の表情。

空気全体が、クリスマスを醸し出していた。

 

家の中で祝わなくても、クリスマスは外からやってきて、

私の日常に色を添えてくれていたのだ。

クリスマスを迎えられる家

クリスマスと、家という場所 -短いエッセイ-

今になって思うのは、

クリスマスを家の中で大切にできる人たちは、

とても幸せなのだろうということ。

 

もしこの思いを詩的に言い換えるなら、

クリスマスを迎えられる家は、

すでに愛されている家だ。

 

そんな余韻が、この言葉には宿っている。

 

私の子ども時代にはなかった、家の中で灯りをともすクリスマス。

けれど、それがなかったからこそ、

今、その美しさと尊さが、

よりいっそう心に響くのかもしれない。

 

クリスマスは、外からやってくるものでもあり、家の中で育まれるものでもある。

 

どちらの形であっても、その季節が持つ静かな思想に、心を寄せることができたなら。

それが、クリスマスという時間を大切にするということなのかもしれない。

あとがき

この文章を書きながら、私は自分の中にあった小さな違和感と向き合っていました。

 

「クリスマスを大切にする人は、家を大切にする」

という言葉には、確かに美しい真実が宿っています。

 

けれど同時に、私のように家の中でクリスマスを祝わずに育った人間にとっては、

どこか遠い世界の話のようにも感じられました。

 

だからこそ、この文章では、二つの風景を並べて置いてみたかったのです。

 

家の中で灯りをともすクリスマスと、街の空気の中に溶け込んでいくクリスマス。

どちらも、それぞれの形で、私たちの心に何かを残してくれる。

 

クリスマスを家の中で祝えることは、本当に幸せなことだと思います。

でも、それができなかったとしても、この季節が持つ静かな祈りのようなものは、

きっと誰の心にも届いている。

 

そんなことを、今年のクリスマスに改めて感じています。

 

最後まで読んでくださいまして、ありがとうございます。

 

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