学校とSNS監視の倫理|「生徒の安全のため」はなぜ個人を傷つけるのか

学校とSNS監視の倫理|「生徒の安全のため」はなぜ個人を傷つけるのか エッセイ

「知っている」ことと「紐づけ」「暴いていい」ことは、まったく別の話です。

この記事で考えること

学校がSNSを監視する。
一見、生徒の安全を守るための行為に見えます。

でも、立ち止まって考えてみてください。

  • その監視は、誰のためですか?
  • 誰が、何のために、どこまで把握していますか?
  • 本人は、監視されていることを知っていますか?

「生徒の安全のため」という言葉は正しそうに聞こえる。
しかし、その言葉の裏で何が起きているかを見ると、
話は変わってきます。

この記事では、
道徳的免責・公式的正義・制度的暴力という3つの概念を使って、
学校とSNS監視の構造を読み解きます。

まず起きていること

SNSを開設したばかりの段階――フォロワーもなく、まだ何も発信していない。

その時点から、学校関係者が匿名アカウントの本人を把握していたとしたら。

これは珍しいことではありません。
学校は個人情報を持っています。
名前、生年月日、家族構成、在籍情報。
そしてその情報が、SNSの匿名アカウントと照合・紐づけられる。

問題は、この行為が「当然のこと」として処理されていることです。

「学校として把握するのは義務だ」
「生徒の安全を守るためだ」
――そう言われると、異議を唱えにくい。

でも本当にそうでしょうか。

「生徒の安全のため」という言葉の構造

ここで登場するのが、公式的正義(Official Justice)です。

公式的正義とは、権力を持つ側が
「全体のため」
「正義のため」
という言葉を使って、自らの行動を正当化し、
異議を封じるメカニズムです。

「生徒の安全のため」という言葉は、この典型です。

学校側の言葉 個人の感覚
主語 全体・生徒・安全 私・自分のアカウント
印象 客観的・正しい・当然 主観的・わがまま・過敏
機能 監視を正当化する かき消される

「安全のため」という大義名分の前では、
「プライバシーを守ってほしい」という個人の声は
「わがまま」に見えてしまう。

しかし、問い返してみてください。

「その安全は、誰の安全ですか?」

監視される側の安全でしょうか。
それとも、監視する側の安心でしょうか。

誰も悪くないのに、なぜ傷つくのか

「学校がSNSを監視する」
という仕組みには、
明確な悪者がいないように見えます。

担当の先生が悪意を持っているわけではない。
学校の方針に従っているだけかもしれない。
でも、確実に誰かが傷ついている。

これが制度的暴力(Structural Violence)の構造です。

特定の悪者がいなくても、
仕組みそのものが暴力として機能する

学校のSNS監視において、
制度的暴力はこんな形で現れます。

  • 監視の基準が不透明
    (何をもって「問題あり」とするのか、誰も知らない)
  • 把握した情報の共有範囲が明文化されていない
  • 本人への通知義務がない
  • 「匿名で活動する権利」が考慮されていない
  • 異議を唱えると
    「隠したいことがあるのか」と疑われる空気がある

誰も明確に悪いことをしていない。
でも、匿名の保護は剥ぎ取られ、監視は続き、本人だけが消耗していく。

「仕方なかった」が連鎖するとき

では、監視を実行した側はどう感じているのでしょうか。

多くの場合、
道徳的免責(Moral Disengagement)が機能しています。

  • 「学校として把握するのは当然だ」(道徳的正当化)
  • 「上からの指示に従っただけ」(責任の転嫁)
  • 「みんなやっていること」(責任の拡散)
  • 「たいして傷つくことではない」(結果の歪曲)

これらが重なると、加害者は「自分は何も悪いことをしていない」と本気で思います。
だから反省しない。
だから繰り返す。

そして最も深刻なのは、
ストレスのはけ口として個人情報が使われるケースです。

劣等感、フラストレーション、感情のはけ口が必要なとき――
本人であることを周囲に暴き、サンドバッグにする。

これは衝動的な行為ではなく、構造が許容している行為です。
情報を持っている。
共有できる。
咎められない。
その3条件が揃っているから起きる。

構造が暴力を生む。
個人の悪意がなくても。

「知っている」と「紐づけ」「暴いていい」は別の話

ここで、根本的な原則を確認します。

個人情報を知っている立場にあることと、
その情報を使う権限があることは、
別の話です。

医師は患者の病歴を知っています。
しかし、それを第三者に話す権限はありません。

学校は生徒の個人情報を持っています。
しかし、それをSNSの匿名アカウントと紐づけて第三者に伝える権限は、
本来ありません。

子どもに限らず、大人であっても匿名で活動する権利はあります。
匿名で活動することは、距離を取ることであり、自分の境界線を守ることです。

その境界線を、個人情報という「鍵」を使って一方的に破ることは、
たとえ「安全のため」という言葉で包まれていても、
プライバシーの侵害にあたります。

本来あるべき設計

「学校がSNSを把握する」こと自体の問題は、
個人情報とSNSアカウントが紐づいてしまう構造にあります。
生徒は学校という空間では先生に従順にふるまわざるをえない。
反抗的と思われたくない、劣等感を抱かせたくない。
その権力の非対称性の中では「やめてください」と言えません。

先生の仕事は授業と学校内での支援です。
課外での生き方・人間関係・SNS上の活動は、
友人や周囲の人が支える領域であり、
先生が踏み込む範囲ではありません。

これは善意であっても、境界線を越えています。
問題は、その仕組みが設計されていないことです。

あるべき設計〈仮想設計〉

把握の目的を明文化する
「安全確認」なのか「監視」なのか。
目的が違えば、許容される範囲も変わります。

共有範囲を限定し、記録に残す
誰が、誰に、何の目的で情報を共有したか。
記録がなければ、責任の所在が消えます。

本人への通知を原則とする
「あなたのアカウントを把握しています」と伝えることが、制度上は最低限の誠実さとされています。
しかし現実には、そう告知された側は安心するでしょうか。
「監視されている」と知ること自体が、すでに萎縮・不快・無力感をもたらします。
「通知すれば誠実」という発想自体が、監視する側の論理であることに気づく必要があります。

匿名で活動する権利を尊重する
距離を取ることは、自己防衛です。
その権利を制度として明記する。

情報の有効期限を設ける
卒業後も把握し続けることに、合理的な理由はあるのか。

本来あるべき設計

「あるべき設計」を語る前に、根本的な問いがあります。

学校は、そもそもSNSアカウントと個人情報を紐づける必要があるのでしょうか。

「把握したうえでどう扱うか」
を議論することは、
紐づけを既成事実として受け入れることになります。

先生の仕事は授業と学校内での支援です。
課外のSNS活動は、その範囲の外にあります。
紐づけの「設計」を整えるより先に、
紐づけること自体の必要性を問い直すことが、
本来の出発点ではないでしょうか。

「知っている」ことと「紐づけ」「暴いていい」ことは、まったく別の話です。

「過敏すぎる」というラベルの機能

プライバシーの侵害を訴えると、こんな反応が返ってくることがあります。

「そんなに騒ぐことではない」
「過敏すぎる」
「大げさだ」
――言葉は違っても、伝わるニュアンスは同じです。
「ヒステリー」という言葉が使われることもあれば、
もっと穏やかな口調で、
しかし同じ意味合いで伝えられることもあります。

一見、感情的な評価に見えます。
しかしこれは、
意図的かどうかにかかわらず、非常に巧妙な構造を持っています。

「あなたの言っていることがおかしい」ではなく、
「あなたの状態がおかしい」にすり替える

内容への反論ではなく、訴えた人の感情を問題化することで、
議論そのものを無効化する。
これがその反応の機能です。

この構造には名前があります。
ガスライティング(Gaslighting)です。

相手の認知・感情・判断を「おかしい」と繰り返すことで、
本人が「自分の感覚がおかしいのかもしれない」と思い込むようになる心理的操作です。

学校という権力の非対称な空間では、これが特に起きやすい。

  • 訴える側:生徒・保護者(立場が弱い)
  • 受ける側:学校・教師(制度的権威がある)

「先生がそう言うなら、自分がおかしいのかもしれない」。
この思い込みが積み重なると、声を上げること自体をやめてしまいます。

しかし――

おかしいのは感覚ではなく、構造です。

「ヒステリー」と言われたとき、それは反論ではありません。
構造を守るための、沈黙の要求です。

読者へ――あなたの感覚は正しい

「なんかおかしい」と感じたなら、その感覚は正しいです。

「生徒の安全のため」という言葉に反論しにくくて、
黙ってしまったとしても、あなたの感覚がおかしいわけではありません。

公式的正義は、個人の声をかき消すように機能します。
制度的暴力は、誰も悪くないように見せます。
道徳的免責は、加害者が反省しない仕組みを作ります。

この3つが重なったとき、
被害者だけが「自分がおかしいのかもしれない」と思い込まされる。

でも――

「知っている」ことと「紐づけ」「暴いていい」ことは、まったく別の話です。

その原則を知っているだけで、あなたを守る力が変わります。

蛇神様
蛇神様

境界線を越えて、劣等感を感じる。
それではメンヘラになります。

学校で必要な支援ができず、

支配的になってしまいます。

まとめ

概念 学校SNS監視における現れ方
公式的正義 「生徒の安全のため」という言葉が異議を封じる
制度的暴力 不透明な運用が、誰も悪くないまま人を傷つける
道徳的免責 「指示に従っただけ」「たいしたことない」で加害者が免責される
ガスライティング 「過敏」「大げさ」といった反応で、訴えた人の感覚そのものを問題化する

4つの概念が重なる場所に、学校とSNS監視の問題があります。

仕組みを変えるのは簡単ではありません。
でも、構造を知ることで、飲み込まれにくくなります。

 

最後まで読んで下さいまして、ありがとうございます。

 

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