専門家の仮面:「専門家に相談してください」その言葉の危うさについて

専門家の仮面:「専門家に相談してください」その言葉の危うさについて エッセイ
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支援という名の支配
肩書きは人格を保証しない

助けを求めるとき、人は扉をノックする。

その扉の向こうには灯りがあり、誰かが「どうしました」と迎えてくれる——そう信じているからこそ、人は勇気を振り絞ることができる。

けれど、もし開いた扉の向こうにいたのが、救済ではなく、ただこちらを見つめる眼だったとしたら。

この文章は、「専門家だから安心」という神話の裏側を見つめた記録である。

扉の向こうにあった眼

助けを求めることは、扉を叩くことだと思っていた。

扉の向こうには灯りがあり、誰かが「どうしました」と迎えてくれる。
そう信じているから、人は勇気を振り絞ってノックをする。

けれど、開いた扉の向こうにいたのは、救済ではなかった。

こちらを見つめる眼だけがあった。

「専門家に相談してください。」

困った人へ向けられる、もっとも善意らしく聞こえる言葉だ。

ところが、その専門家自身が獲物を探していたらどうなるのだろう。

最初は気づかない。

その眼は穏やかに笑い、専門用語を話し、記録を取り、「安心してください」と言う。

だから疑わない。

人は白衣や資格証に安心するように育てられている。

肩書きは人格の証明書ではないのに。

被害を話す。

すると返ってくる言葉は決まっている。

「まず病院へ行きましょう。」

その一言は、どこか儀式めいている。
まるで決められた手順を読み上げる司祭のように、迷いなく、感情なく。

一見すると冷静で、理性的で、専門的な助言に見える。
しかし、その病院で待っていたものが、診療という名目を利用した不必要な接触や人格への過度な介入、あるいは患者への執着だったとしたらどうだろう。

そこから先は、少しずつ世界の輪郭が変わっていく。

蔦のように忍び込む「支援」

診る人。
聴く人。
記録する人。
評価する人。

誰もが「あなたのため」と言いながら、少しずつ生活の内側へ入ってくる。

玄関の前まで。
通勤路まで。
病院まで。

安心するために開いた扉から、いつの間にか向こう側がこちらへ入り込んでくる。

逃げ場はない。
逃げようとすればするほど、「支援」が増えていく。

それは蔦によく似ている。
一本なら柔らかい。
しかし、気づけば家全体を覆い、窓を塞ぎ、光を奪ってしまう。

支援もまた、ときにそういう顔をする。

回遊魚のような制度

被害者は、「助けを求めた」という一点だけで、次の被害へと送り込まれる。

そして、すでに病院へ通っていることを伝えると、今度は相談員のほうが病院という生活圏へ入り込んでくる。

「様子を確認しています。」
「連携しています。」

そんな言葉は便利だ。

監視も、接近も、干渉も、「支援」という看板を掲げれば、途端に正当化される。

病院にまで訪ねて来られたら、大変だネ。

蛇神様
蛇神様

フライくんも、

料理されて食べられそうになったことがあるのですよ。

こちら

蛇神様
蛇神様

危うかったですね。

危機一髪!!

 

被害を訴えた人は、いつの間にか「観察対象」へ変わっている。

相談は入口だったはずなのに、出口がない。

一人の専門家から逃れても、別の専門家へ案内される。

相談員から医療へ。
医療から福祉へ。
福祉から行政へ。
行政からまた相談窓口へ。

まるで回遊魚のように制度の中を巡らされ、そのたびに同じ説明を繰り返し、同じ視線を浴びる。

その間にも、本来訴えたかった出来事は少しずつ色褪せていく。

やがて周囲は言う。
「いろいろなところに相談していますね。」

そうして、被害そのものではなく、「相談した事実」が問題へとすり替えられていく。

これは二次被害というより、被害の上書きである。

申告は消されない。

しかし、意味だけが消えていく。

仮面がずれる瞬間

興味深いのは、そのような人物ほど専門家らしい話し方をすることだ。

相談員は穏やかに話す。
医師は静かに頷く。
誰も声を荒らげない。
共感の言葉。
心理学や法律の専門用語。

どれも完璧だ。
だからこそ恐ろしい。

怒鳴る者より、囁く者のほうが深く近づいてくることがある。
専門家の言葉は整っている。
共感も、理論も、沈黙の置き方さえ訓練されている。

けれど、人は完璧には演じられない。
けれど、ときどき仮面がずれる瞬間がある。

ごく短い瞬間。
目だけが笑わない。
目だけが妙に光る。

質問が必要以上に細かくなる。

生活圏や人間関係への関心が、支援という範囲を越えている。

沈黙を楽しむような間。
答えではなく反応を眺めている。
こちらが萎縮する空気を、どこか愉しんでいる。

相手を理解したいのではなく、所有したいような視線。

その瞬間だけ、専門家の言葉遣いの隙間から、抑えきれない欲望が顔を出す。

ギラリ、と。

ほんの一瞬。
ほんの一秒。
仮面の継ぎ目から、湿った光が漏れる。

本人は隠したつもりでも、その光だけは消えない。

その光は飢えによく似ている。

相手を理解したい飢えではない。
近づきたい飢えでもない。

境界を越えたい飢え。
他人の人生へ、自分の指を差し込みたい衝動。

どれほど専門用語を重ねても、その光だけは隠せない。

制度は資格を与える。

だが、人格までは保証しない。

相談員という肩書きも、医師(弁護士・公務員・教師)という資格も、人間の倫理を自動的に証明するものではない。

だから私たちは、「専門家だから安心」という神話を捨てなければならない。

肩書きを信じるのではなく、振る舞いを見る。

言葉ではなく、境界線を尊重しているかを見る。

支援とは、本来、人を自由にするものである。

自由を奪い、生活圏へ入り込み、依存や監視を生み出すものは、どれほど専門用語を並べても支援ではない。

それは支援の衣をまとった支配である。

そして最も恐ろしいのは、その支配が、善意の顔をして近づいてくることなのだ。

紙は厚くなるのに、真実は薄くなる

そして、被害を訴えた人は、いつしか被害そのものではなく、「訴える人」として扱われるようになる。

相談した回数。
受診歴。
記録。
紹介状。
カルテ。

紙だけが増えていく。

紙は厚くなるのに、真実は薄くなる。

何をされたかではなく、どこへ相談したか。
何が起きたかではなく、どんな人なのか。

問いは静かにすり替えられていく。

こうして申告は消えない。
ただ、誰にも届かなくなる。

それが最も静かな抹消である。

迷路の出口

制度は巨大な迷路に似ている。

出口は描かれている。
案内板もある。
係員も立っている。

それでも歩き続ける者は、いつしか自分がどこから来たのかを忘れる。

迷路は、人を閉じ込めるためだけに存在するのではない。

「ここには出口がある。」

そう信じさせるためにも存在している。

だから人は歩き続ける。

疲れ果てるまで。
声が枯れるまで。
希望が擦り切れるまで。

そして最後に残るのは、不思議な静けさである。

怒りではない。
絶望でもない。

長い冬の朝のような静けさ。
もう誰も信じられない、という静けさ。

それでも、人はまた扉を叩く。

助けを求めることを諦められないからだ。

そのたびに願う。

次に開く扉の向こうには、こちらを見る眼ではなく、こちらの苦しみを見る人がいてほしい、と。

その願いだけは、まだ誰にも奪われていない。

あとがき

肩書きは、それを持つ人の善意を保証してはくれない。

けれど、この文章が伝えたいのは、専門家への不信そのものではない。

「振る舞いを見る」
「境界線を尊重しているかを見る」
——それだけが、扉の向こうにいる相手を見極める、唯一の手がかりだということだ。

まだ扉を叩く力が残っている人へ。

次に開く扉の向こうに、こちらの苦しみを見てくれる人がいることを、願っている。

「肩書きではなく振る舞いを見る」

 

最後まで読んでくださいまして、ありがとうございます。

※この文章は、すべての専門家を疑うために書いたものではありません。
むしろ、人を支えるという仕事が、本来どれほど尊いものであるかを忘れないために書きました。

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